第7話 立ち直り準備中
クリスマス一週間前のある日、ケンジはお気に入りのレストラン「サム」にいた。
この店に来るたび、ふと彼女が現れるのではないかと期待してしまう。
ドアの真鍮のノブに手を掛ける時など、今でもそんな予感に胸がときめくことがあった。
しかし、彼女が現れることはなかった。
いつものように数人の客がテーブルに座り、カウンターの向こうには、いかつい顔のマスターが一人で立っているだけだった。
ケンジは時々、なぜこの店に来ると切ない気持ちになるのだろうと思う。
彼女と過ごした時間を思い出すからだ。
それでも、マスターの女性に関する失敗談を聞いていると、不思議と気持ちが軽くなった。
恋人が去ってしまった後は、その思い出を笑い話に変えるしかない。
笑っている間は、何も考えなくて済む。
「お前みたいな男を、ウジ虫っていうんだよ」
マスターは茹でたパスタをボウルでかき混ぜながら、ケンジのそばまでやってきた。
「まったく情けない。俺なら、すぐに他の女を探すね」
「そう言うマスターも、奥さんに逃げられたままじゃないか。新しい人を見つけたらどうだい?」
マスターの顔が一瞬、強張った。
だが、怒りはしなかった。
サム・R・フックスは苦笑した。
ケンジのことを、ただの純朴な若者だと思っていたが、案外しっかりしているらしい。
「お前の名前はケンジ・オカムラだったな」
「何だよ、急に改まって。マスター、怒ったのかい?」
「怒ってないさ。ただ、お前は面白い青年だと思ってな。今、大学の何年生だ?」
「四年生だけど」
「本当に、この春に卒業できるのか?」
「卒業するよ。俺がそんなに頭悪そうに見えるかい? 奥さんの話をすると、マスターはいつもそんなに意地悪になるのかい?」
サムはまた苦笑した。
「俺のことはどうでもいいだろう」
「だったら、俺のことだってどうでもいいじゃないか」
「女にフラれた男は、みんなそう言うんだ。不思議なものだ」
独身のリプリー警部補も、オットー所長に同じようなことを言っていた。
そういえば、昨日の死体の件はどうなったんだろう。
「俺はフラれたんじゃないって、マスターが言ったんじゃないか」
「あの時は、お前が不幸そうに見えたからだよ」
「今は不幸そうに見えないのかい?」
「タフなやつだと感心している」
「まだ少し心が痛いんだけど」
「全然そうは見えない」
ケンジは、この話を打ち切ることにした。
仕事が待っている。
「仕事って、何をやってるんだ?」
「アルバイトで、自然科学研究所の助手をしてる」
「自然科学研究所? もしかしてK4地区の白い建物か?」
ケンジは頷いた。
「俺はあの研究所が何をやっているのか、一晩中考えたことがある。教えてくれ。あそこで何をやってるんだ?」
「食品衛生とか公衆衛生の調査。それに実験用の試験サンプルの準備とか」
ケンジは少し考えた。
「あと、偽造フィギュア製造の下請け」
サムは、カウンターの上を七面鳥が横切っているのを見たような顔をした。
「偽造フィギュアの製造だって?」
そして首を振った。
「フィギュアは元々、偽物だろ?」
「その偽物をさらに偽造して、別のものにしちゃうんだ」
「……?」
「つまり、犬をパンダに作り替えたりさ」
「犬をパンダに? 何でまたそんなことを……組織から遺伝子を抽出してクローンを作るとか?」
「えっ? いや、人形だよ。そんなこと本物でできるわけないでしょ」
「あっ、人形の話ね」
サムは少し安心した。
「でも、そんなものに需要があるのか? どこで売ってるんだ」
「ダイゾーとかゼリアとかに卸す人形だってさ」
「何でまた、そんなものを……」
「ワタクシのバイト代を捻出するんだって」
「あんまり景気よくないんだな、研究所」
「まったくね」
その時、レストランのドアが開き、三人の家族連れが入ってきた。
「あっ、お客さんみたいだよ。僕はそろそろ行くよ」
ケンジはカウンターを離れた。
サムは新しい客を迎えながら、まだ考え込んでいた。
「ますます眠れなくなるよ。ウインドベル自然科学研究所の実態は、いったい何なんだ」
「それが俺にもよくわからないんだ」
ケンジは舌を出し、店を出ていった。
つづく
